生活

某テスト氏の生活

06_22_20_17

 

ブランショも同じように、存在者の消滅地点を見ているだろうか。

 

 

 私、いったい私と口にすることがなおもできるのだろうか。おそらくはひとりの自我を欠いた<私>であり、個人的な人格(パーソン)と誰かある者のあいだで揺れる、個人的=人称的ではない、一時的=一点的な状態である。それは、あるひとつの見かけであり、ただ常軌を逸した関係の要請だけによって、沈黙のうちに、一時的にその役目を授けられるか、あるいは<自我=主体>の審級に据えられる。そして、この見かけは、<自我=主体>の審級に同一化するのであり、そうやって同一性を装うのである。そこから発して、<他なるもの>〔Autre〕のうちの、絶対的に非-同一的なものの刻印が、エクリチュールを通して告げられるようになるのだ。

    第三の関係 - 地平のない人間  終わりなき対話Ⅰ

 

 

対話の不可能性、他者の十全な理解。疲労の限界点の到達、死ぬことの不可能性(生きながらにして死に到達できないこと。そして、私が私であることの不可能性。欲望の十全な到達。全知への到達。すべて”不可能性の可能性”によって存在者は支えられている。存在者にはなんの権力も備わっていない。すべての行使はただの幻惑に過ぎない。ただあるのは状態である。ただ、一方的に告げられる。関係そのもの。意味が現象するのはこの所為である。過去も現在も未来も、全ては終わっている。全ては遅すぎる。

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