生活

某テスト氏の生活

0519_2017

00700:起床

 

やや寝不足。

寝不足でない出勤が求められている。もともと高校の頃からこの夜型の生活が染みついてしまっており、社会人になっても変わらず、矯正しても矯正しきれないで困っている。だれか助けて。

 

(このかっこ内の文は、仕事の反省文の意を示す記号。)

 

日記が一日遅れてしまった罰ゲームを以下に記しました。 

 

そのあとは現場のメンバーと夕飯を取って、ダーツをしました。

立ち位置、肘を固定すること、ダーツの持ち手、スイングのスピード、手を放すタイミング、軸足を直線的な棒にすること。その他それを支えるすべて。これらを固定すれば、同じ場所に飛ぶはずなのであるが、そうもいきません。かなり筋力がいる。瞬発的な筋力ではない、筋力。待機することの筋力の方が重要である。難しい。投げた瞬間にはなんとなくわかる。これが投げる前にわかるようになると上達しているということだ。本来的に投げる前からダーツは投げられている。つまり、ダーツが的に刺さる前にダーツは刺さるべきところに既に刺さっている。ダーツが的のどこに刺さるかは、手を放す瞬間に決まるのではない。このようにすべての"可能性"は"終わっていることの可能性"であるように思うのだけれど。皆さんはいかがでしょうか。つまり、そのような可能性は伏蔵していただけであり、ダーツの上の例でいえば、"その他それを支えるすべて"という今僕が不可視にしたものにあると思いませんか。エネルゲイアエネルゲイアとしてあるのは人間の認識の問題でしかないということを。ダーツは多分に意識によって成績が変わります。が、この意識は例えば"集中"というような言葉で内包されたりしますが、集中は中に集めると書きますが、集めるこの意識は既にどのくらい集められるかという袋に依存します。ここで袋は外部性と思っていただいて構いません。また、"その他すべて"。袋の大きさは袋の内の大さで決まるというよりは、袋の表面によって決定されます。外に決定される。つまり袋の大さは内側の大さではなくむしろ、外側の大きさ、袋の大きさによって決まります。しかし、袋それ自身に、外と内という定義は存在しない。定義は意味に遅れている。あるのは私の視点を通してそれが袋の外ということを示す定義である。この定義は判断でありうる。袋自体に外側だとか内側という意味は存在していない。外の規定(存在者の判断により、内部が決定される。それと同時に外部が決定される。順番は問われない。)これは家も同様です。"外部による規定の内部の内部"それが価値であり、意味であろうか。おそらくそうではない。外部は既に意味づけられている。この円環の中で常に再定義されうる。そこからさらに外部が再び立ち現れるというように。故に何事に引けを取ることなく、意味はあらゆるものに先行している。それは(正・非)を越えている。受け取ってしまっているという意味で。もともと空間性は無限に等しい。空間の無限性は、全く手つかずの場合に空間とは無限性であり無意味性でもある。空間が有限なのは、人間が有限だからである。つまり、有限者の手に触れるもの、手垢に塗れた空間だけが価値を持つ(例えば建築物)。袋それ自体は内部と外部の境界にあるが、しかし、袋それ自体の本質は中にあるのではなく、外に決定された内部であるということである。ここで、価値と意味を分けなければなりません。「価値がない」または「価値がある」ことの"判断"は世界の無限性に対して、ある有限者が示す場合にのみ、可能である。しかし、ここでまた"判断"ということが問題となる。"判断"、"価値"、"意味"一体この3つはなんなのか。何が最もアプリオリなのか。それは順序立てるとすれば、"価値"は"価値判断"という言葉があるように、価値は判断に依存している。"意味判断"という言葉がないのは何よりも、有限者が何らかの意味をすでに受け取ってしまっているということである。つまり、判断をする前に受け取ってしまった意味によってしか判断はなされない。したがって、(意味→判断→価値)ということになるだろうか。問題はもっと入り組んでいる。この私がこう解釈しているということは何一つ自明ではない。これは判断である。つまり、なんらかの経験と知識に基づいている。しかしいずれも、どの知識を使うか、どの経験を使うか、という判断である。判断が常に間違い得るのはすでに意味(正・非)を越えて意味を受け取ってしまっている存在者の判断であるからである。さらに、(正・非)はなんら自明ではない。そもそも世界とはただあるのである。それは絶対零度である。しかし有限者はなんら絶対零度ではない。なぜならば、(正・非)を越えて有限者とは、既に意味を受け取っている者であるからである。世界はただある。同じように存在もただある。しかし、ただあることができないのはこのようになんらかの意味をすでに受け取ってしまっているからに他ならない有限者だからである。それは超越性としてあるのではない。”物がただ在る”というのは客観的でもなんでもない。そうさせているのはそういった事情である。繰り返し述べるが、"意味"は(正・非)を越えている。つまり、内部こそは既に無限なのではあるが、これが内部の空虚であり、外部は常に十全である。つまり、超越である所以ではないか。そして、仮に意味・判断・価値が円環の中での出来事であるならば、すべてもうすでに終わっているものの謂れなのではないのか。

 

さて、このわけの分からない文章。私にもよくわからないと言っておきたいがなんらかの意味になってしまっていれば僕はそれで達成したことになるのではあるが。それはつまりなんでもよかったのである。