生活

某テスト氏の生活

èchauffement

 

仕事はなんとか乗り切りました。

 

残業に次ぐ残業でもう先週の土日なんかは休んだ気がしなかったのですが。

でも乗り切ったといえるのか。レビューやらそれの修正やら会議やらで忙しく、会議は応えられない部分は若干ありつつも、おおむねなんとか説明できたし、よかったのではないでしょうか。ほんとああいう場は初めてだったので、これは応えるなと思いながら、あの方はこんなハードな仕事を(ここまでかはわからないけれど)熟していたのかという気持ちになり、いろいろな気持ちが錯綜しました。

なんというか、今後の舵取りはまぁ難しくなりそうです。明日から本当にスケジュール通り行くだろうか。いや、、、

 

土曜は語学学校で手続きをしました。来週からスタート。違う学校ですが、前にも通っていたので雰囲気はなんとなくわかっているのですが、なんとかなるか、といわれるとどうでしょう。ただ今回は最後の最後(語学に最後も何もないけれど)まで懲りずに通う。目標は高くね。

そのあとnと合流して喫茶店に行き近状報告&スタジオで楽器を鳴らしたりしました。なんだか面白くなりそう。

 

先週の土曜日に、何も買わないつもりで本屋に入りましたが、ブランショの終わりなき対話IIが目に飛び込んできて、なんの迷いもなく本が手の中に。初版が6月20日と書いてあって、本ってこんなにフラゲできるの、とかなんとか思ったり。

 

予習・復習をしなければね。

 

06_22_20_17

 

ブランショも同じように、存在者の消滅地点を見ているだろうか。

 

 

 私、いったい私と口にすることがなおもできるのだろうか。おそらくはひとりの自我を欠いた<私>であり、個人的な人格(パーソン)と誰かある者のあいだで揺れる、個人的=人称的ではない、一時的=一点的な状態である。それは、あるひとつの見かけであり、ただ常軌を逸した関係の要請だけによって、沈黙のうちに、一時的にその役目を授けられるか、あるいは<自我=主体>の審級に据えられる。そして、この見かけは、<自我=主体>の審級に同一化するのであり、そうやって同一性を装うのである。そこから発して、<他なるもの>〔Autre〕のうちの、絶対的に非-同一的なものの刻印が、エクリチュールを通して告げられるようになるのだ。

    第三の関係 - 地平のない人間  終わりなき対話Ⅰ

 

 

対話の不可能性、他者の十全な理解。疲労の限界点の到達、死ぬことの不可能性(生きながらにして死に到達できないこと。そして、私が私であることの不可能性。欲望の十全な到達。全知への到達。すべて”不可能性の可能性”によって存在者は支えられている。存在者にはなんの権力も備わっていない。すべての行使はただの幻惑に過ぎない。ただあるのは状態である。ただ、一方的に告げられる。関係そのもの。意味が現象するのはこの所為である。過去も現在も未来も、全ては終わっている。全ては遅すぎる。

今後の生活

 

日記を書けなくなっており、別に忙しいのかと言われるとそうでもなのですが、

僕という存在者は日記を書くのに適していないような気がしています。

そんなことは前からわかってはいたのですが。

 

ここ最近、仕事以外は多く満たされていて、僕がそんな少しの幸せも許されるような存在者ではないということが手に張り付いて剥がれないものだから、ある種の不安や居心地の悪さみたいなものを感じていて、どんだけこの存在者はめんどくさいのだろうとあきれている。僕が救われる方法は一つしかない。そんなことはわかっている。

 

 

残したい生活はあるのですが、実際書くか(公表するか)というと微妙みたいなことが多いので、あまり進みません。なので、忘れたくないことは脳に叩きこむことにします。

 

生活を閉じてもよいのですが、あちらの円環に書くほどのことでもないような、このようなことを書きたくなったら、日の記しという形式を破壊して書けばよいのかもしれません。

 

兎角、僕の体内から形而上学が死んでゆくのを感じています。

それはあまり考えなくなってしまったというだけの話に過ぎないのですが。

 

とはいえこちらの自分とあちらの自分のどちらが本当の自分なのかということについては、あまり考える意味もなさそうです。

 

いきなり生活を閉じることもあるとは思いますが、あちらの円環は閉じないと決めています。

 

僕は、僕がどれだけ不幸かを書くよりも、僕がどれだけ幸せかを書くほうが、気味が悪いことのように思われた。

0601_2017

0700:起床

 

仕事は順調。初めて作ったけど案外なんとかなるもので、楽しいのでもっとやりたいのだけれど、なんか瞬殺してしまった。無念。午後から会議に参加。僕もそう思ったのでなんとなくニュアンスは掴めているのだろう。明日はちょっと会議。というか打ち合わせみたいな。成果物の確認みたいな。そんな感じです。うまく説明できればよいな。

定時。

 

帰って飯食って練習。全部覚えた。あとは慣れ。なかなかリズムをキープするのが難しいです。あとたまに間違える。慣れ。成長してる感がありとても健康的。

 

5月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:938
ナイス数:0

レヴィナス入門 (ちくま新書)レヴィナス入門 (ちくま新書)感想
殆ど僕の思っていたレヴィナス像と一致していた。
読了日:05月21日 著者:熊野 純彦
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考
読了日:05月14日 著者:ジャン=リュック ナンシー
レヴィナス著作集 2: 哲学コレージュ講演集レヴィナス著作集 2: 哲学コレージュ講演集
読了日:05月05日 著者:エマニュエル レヴィナス,ロドルフ カラン

読書メーター

 

楽器の練習をしているので最近全然読んでない。読みたいけれど。

まぁ、もともと本読めるのかといわれると全然読めない。

 

 

 

死ぬ夢を見た、と職場の人が話してきて、自分は人を殺した夢も見たことある、と言ったら驚かれたのだが珍しいのだろうか。最近はないけれど。

 

 

0531_2017

0700:起床

 

仕事は順調。ちょっと備えてお勉強。

 

定時で上がってkと飯食ってそのままk宅で練習。

ほぼ覚えてたので、あと要点だけ掴んで終わりと思ったけど、ちょっと違ったらしく、なんかそのちょっとっがずるずると引っ張ってきてちょっと辛い。

0530_2017

0715:起床

 

仕事はまぁまぁ。

 

帰って練習。

なんか3時間くらい弾いていた。

もうちょい。

0529_2017

0710:起床

 

「あなた、3日も日記を書かないで、何してたの。」

「すみません。もう殆ど憶えてないので今日から書きます。」

 

仕事は、まぁまぁ。なんでそれ今振ってきた、みたいなタスクが降ってきてなんとか倒しました。話聞いた瞬間は「はい死んだー」と思いましたが、なんとかアドバイス受けつつ倒しました。明日もその続き。今日のペースでいけば終わる。

 

会社の人とダーツを投げました。

 

 

とはいえ、なんか書き留めておきたいのでいろいろ書く。

土曜日にダーツを買いました。そのまま遊んでました。フォームも前より固まってきたのかスコアも徐々に向上してきました。

 

某楽器を弾くことになりました。なんで急にということですが、自分でもちょっと驚いています。実際やるかやらないか悩んでいたけれど、詳細の連絡がきて、「では、」という感じです。あなたがいってくれたから。じゃなきゃ俺は何もできんのだ。あの人がいつも手を引っ張ってくれる。何度もその手に、手を伸ばすように。2年前からずっと変わらない。お人好しで明るくて強くて優しい人。少しでも時間を共にできるなら、できる限りそうしたい。

なんの楽器でもよいということで、じゃあ、家にあるしあれでということで始めました。昔買ったものの無理で無理だったので封印していました。全く弾けないのでkの力を借りて、というよりほぼ家に殴り込みにいって教わりました。一曲覚えます。だいぶ覚えました。もうあと終盤。かなりよい感じで進んでいます。kの力は偉大だ。流石。この恩はいずれ。なんか久々にリハスタに入ったりなんかして楽しい。今日も帰って練習をしました。気を抜かないで。

 

自分の人生はあの人で動いている。

でも、たとえば、悲しませてしまっても、それは俺の責任だ。

よいことはあの人のおかげで、悪いことは全部俺の所為だ。

それはどんな時も。

 

 

 

突然、動きだす、急、駆ける5月。

0525_2017

0630:起床

 

仕事はまずまず。今月はなんとかなりそう。

来月はみんなで死のうな。みたいな雰囲気になっている。

いやぁなんとかしたい。考えよう。定時。

 

 

足を止める力が失われていることに気づく。

 

 

0524_2017

0710:起床

 

だったと思う。

 

出勤。お手伝いをしまして、なんかさらにまたお手伝いしまして、

分担したけど俺の方が重いのですが、と思いながらも。

 

この日記を書き続けることの不安に襲われた。

0523_2017

0630:起床

 

早く寝たので寝不足じゃない。奇跡。

ゆっくりシャワーを浴びて部屋へ戻ると返事が来ていた。また逢える。嬉しい。

  

仕事はと言えば、思ったよりも自分の方が片が付いてしまい。(まだだけど。)

メンバーの手伝いをしました。理解したけれども、ちょっと重い。明日ぎりぎり終わるかどうか。バッファは明日の午前中まであるから、それまでには終わる、はず。

 

 

www.youtube.com

0522_2017

0705:起床

 

圧倒的寝不足。

あの恐るべきタスクを見事倒した。。。

が、主、残酷なり。また別の恐るべきタスクがカーテンレールの端からこちらを覗いているので、音速でカーテンを閉めたい所存である。

 

 

昨日の影響なのかマクタガートの「時間の非実在性」を読んでいる。

このiBooksを利用して思ったのだけれど、同時に本読むの僕は無理っぽいのでいずれ止めるかもしれない。

 

返信が来るか来ないか、本当に死んでしまいたくなるほどの時間。

返信が来て、泣きそうになるくらい嬉しかった。

言葉を返してはまた不安の中に落ちる。また余計なことを言ってしまったかもしれない。もうわからない。

0521_2017

0915:起床

 

電車の中でレヴィナス入門を読み終える。

僕が思っていたレヴィナス像とほとんど一致していたと思う。

 

大切な用があったのでそれを。

内容は書かない。とても大切なものだから。

 

僕は変わらず想っている。

僕はいつもこれが最後かもしれないと思いながら。

もし、あの人がそう望むなら。僕の目の前から消えようとも。僕は絶対に嫌だけれど、もしそうなら、僕は僕を殺してあの人の望む方へ、自分の世界の、或る1%の想い以外が、消え去る場所へ進む覚悟はできている。それでもこれだけは、僕は変わらず想っているということだけは。

 

今日は本当にありがとう。ずっと憶えている。

0520_2017

1000:起床

 

今日は友人nと会いました。

T駅喫茶店で仕事の話とか音楽とかソールライターとか。

 

Sに行き徘徊。飯を食って、S喫茶店のち、一人喫茶店。

 

T駅の喫茶店でおかわりシステムがあることを店員さんが教えてくれて、半額でコーヒーを頂いた。とても助かります。さすがにこんだけ通っているので顔を覚えてくれていたようで、「先ほどいらっしゃいましたよね。おかわりは半額になりますので。」と。「今までなかったですか?」と聞かれ、「あまり一日に二度来ることがなかったので」と伝えたら「レシートがあれば半額になりますので。」僕は「そうだったんですね。」と言ったら笑顔で「いつもありがとうございます。」と言ってくれた。僕は「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます。」と返して階段を上った。よい店員さんである。大学生だろうか。いろいろあると思うが彼が好い人生を歩むことを祈っている。

 

帰宅。夕飯を食べて、こうして昨日の分の日記と今日の日記を書いていると、連絡が来た。ありがとう。楽しみにしてます。

0519_2017

00700:起床

 

やや寝不足。

寝不足でない出勤が求められている。もともと高校の頃からこの夜型の生活が染みついてしまっており、社会人になっても変わらず、矯正しても矯正しきれないで困っている。だれか助けて。

 

(このかっこ内の文は、仕事の反省文の意を示す記号。)

 

日記が一日遅れてしまった罰ゲームを以下に記しました。 

 

そのあとは現場のメンバーと夕飯を取って、ダーツをしました。

立ち位置、肘を固定すること、ダーツの持ち手、スイングのスピード、手を放すタイミング、軸足を直線的な棒にすること。その他それを支えるすべて。これらを固定すれば、同じ場所に飛ぶはずなのであるが、そうもいきません。かなり筋力がいる。瞬発的な筋力ではない、筋力。待機することの筋力の方が重要である。難しい。投げた瞬間にはなんとなくわかる。これが投げる前にわかるようになると上達しているということだ。本来的に投げる前からダーツは投げられている。つまり、ダーツが的に刺さる前にダーツは刺さるべきところに既に刺さっている。ダーツが的のどこに刺さるかは、手を放す瞬間に決まるのではない。このようにすべての"可能性"は"終わっていることの可能性"であるように思うのだけれど。皆さんはいかがでしょうか。つまり、そのような可能性は伏蔵していただけであり、ダーツの上の例でいえば、"その他それを支えるすべて"という今僕が不可視にしたものにあると思いませんか。エネルゲイアエネルゲイアとしてあるのは人間の認識の問題でしかないということを。ダーツは多分に意識によって成績が変わります。が、この意識は例えば"集中"というような言葉で内包されたりしますが、集中は中に集めると書きますが、集めるこの意識は既にどのくらい集められるかという袋に依存します。ここで袋は外部性と思っていただいて構いません。また、"その他すべて"。袋の大きさは袋の内の大さで決まるというよりは、袋の表面によって決定されます。外に決定される。つまり袋の大さは内側の大さではなくむしろ、外側の大きさ、袋の大きさによって決まります。しかし、袋それ自身に、外と内という定義は存在しない。定義は意味に遅れている。あるのは私の視点を通してそれが袋の外ということを示す定義である。この定義は判断でありうる。袋自体に外側だとか内側という意味は存在していない。外の規定(存在者の判断により、内部が決定される。それと同時に外部が決定される。順番は問われない。)これは家も同様です。"外部による規定の内部の内部"それが価値であり、意味であろうか。おそらくそうではない。外部は既に意味づけられている。この円環の中で常に再定義されうる。そこからさらに外部が再び立ち現れるというように。故に何事に引けを取ることなく、意味はあらゆるものに先行している。それは(正・非)を越えている。受け取ってしまっているという意味で。もともと空間性は無限に等しい。空間の無限性は、全く手つかずの場合に空間とは無限性であり無意味性でもある。空間が有限なのは、人間が有限だからである。つまり、有限者の手に触れるもの、手垢に塗れた空間だけが価値を持つ(例えば建築物)。袋それ自体は内部と外部の境界にあるが、しかし、袋それ自体の本質は中にあるのではなく、外に決定された内部であるということである。ここで、価値と意味を分けなければなりません。「価値がない」または「価値がある」ことの"判断"は世界の無限性に対して、ある有限者が示す場合にのみ、可能である。しかし、ここでまた"判断"ということが問題となる。"判断"、"価値"、"意味"一体この3つはなんなのか。何が最もアプリオリなのか。それは順序立てるとすれば、"価値"は"価値判断"という言葉があるように、価値は判断に依存している。"意味判断"という言葉がないのは何よりも、有限者が何らかの意味をすでに受け取ってしまっているということである。つまり、判断をする前に受け取ってしまった意味によってしか判断はなされない。したがって、(意味→判断→価値)ということになるだろうか。問題はもっと入り組んでいる。この私がこう解釈しているということは何一つ自明ではない。これは判断である。つまり、なんらかの経験と知識に基づいている。しかしいずれも、どの知識を使うか、どの経験を使うか、という判断である。判断が常に間違い得るのはすでに意味(正・非)を越えて意味を受け取ってしまっている存在者の判断であるからである。さらに、(正・非)はなんら自明ではない。そもそも世界とはただあるのである。それは絶対零度である。しかし有限者はなんら絶対零度ではない。なぜならば、(正・非)を越えて有限者とは、既に意味を受け取っている者であるからである。世界はただある。同じように存在もただある。しかし、ただあることができないのはこのようになんらかの意味をすでに受け取ってしまっているからに他ならない有限者だからである。それは超越性としてあるのではない。”物がただ在る”というのは客観的でもなんでもない。そうさせているのはそういった事情である。繰り返し述べるが、"意味"は(正・非)を越えている。つまり、内部こそは既に無限なのではあるが、これが内部の空虚であり、外部は常に十全である。つまり、超越である所以ではないか。そして、仮に意味・判断・価値が円環の中での出来事であるならば、すべてもうすでに終わっているものの謂れなのではないのか。

 

さて、このわけの分からない文章。私にもよくわからないと言っておきたいがなんらかの意味になってしまっていれば僕はそれで達成したことになるのではあるが。それはつまりなんでもよかったのである。

0518_2017

0650:起床

 

やや寝不足。仕事は思ったより期限までには何とかなりそう。他のメンバーはつらそう。

1730:退勤。

 

熊野純彦の『レヴィナス入門』は思ったよりもよい。後半よい。

 

T駅喫茶店にて。

ヘーゲルの『精神現象学』も大変よい。

 

特に書くこともなく。